高岡コロッケ物語

高岡コロッケ物語(12)

第1部・浪漫あり
ルーツ探し(上) 「北前船が運んだ」食文化

北前船交易の面影を残す大正時代の伏木港
コロッケのルーツを解く鍵はジャガイモか=高岡市内のホテルの調理場

 コロッケによるまちづくりの動きに合わせて、高岡コロッケのルーツに対する関心も高まっている。中でも、意欲的にルーツ探しに取り組んでいるのが、山元醸造の山本和代子さん(46)=高岡市横田町二丁目=である。
 山本さんは高岡の歴史に造詣が深く、家業の傍ら本も執筆している。「西洋料理が伝えられた街とコロッケ発祥の地とは、必ずしも一致しないのではないか。ジャガイモと西洋料理がいつ、どこで出合ったかを見極めたい」と語る。
 高岡にコロッケが伝わるうえで北前船が大きくかかわっていたというのが、山本さんのルーツ探しの出発点だ。江戸時代中期に誕生した北前船は、明治三十年代まで大阪と蝦夷地(えぞち)(北海道)を結ぶ日本海航路を行き来し、伏木港にも各地から農産物をもたらした。

●有力候補3カ所
 山本さんは寄港地のうち、ジャガイモにゆかりの深い長崎、函館、むつ市(青森県)の三カ所を発祥の地の有力候補とし、コロッケの作り方も同様に波及したと考えている。波及した先の一つが富山県であり、高岡だった。
 ジャガイモは十七世紀初頭、蝦夷地に伝えられたとされる。函館は開港地の一つで、早くも一八五九(安政六)年に外国人向けの西洋料理店が開業している。明治四十年代に男爵いもが盛んに栽培されると、これを使った料理が登場し、コロッケに近い揚げ物料理も出されたという。
 函館を含む北海道には、北陸三県からの開拓者が多く、両地の間では交易も盛んだった。高岡など北陸からは味噌や醤油(しょうゆ)などが積み込まれ、函館からはジャガイモなど開拓地で収穫された農産物が持ち込まれた。「函館説」の根拠である。

●長崎にジャガイモ
 日本に初めてジャガイモが入ってきたのは、一五八九(慶長三)年のことで、オランダ人がジャワの港ジャガタラ(ジャカルタ)から長崎に伝えたとされる。  一八六三(文久三)年、その長崎で初めて西洋料理店を開業した草野丈吉という人物が「ジャガイモと牛肉の揚げ焼き料理」を参考にコロッケを考案した。これが北前船を通じて高岡に伝わったというのが「長崎説」である。
 三つ目の「むつ説」は明治時代に海軍の食事メニューとして採用されたコロッケが、海軍基地のあった現在のむつ市大湊で市民の間に広まり、これが高岡に伝わったというものだ。むつ市では道南地方で栽培された男爵いもが使われていた。
 山本さんは「海上交易を通して広がった食文化だったことは確かだと思う」と語る。どの説が正しいのか、あるいは別の発祥の地があるのか。いずれにしても、まさに「浪漫あり」のルーツ探しである。

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