高岡コロッケ物語

高岡コロッケ物語(7)

第1部・浪漫あり
ソースの唄(上) 二人三脚で「庶民の味」に

ソースの出来具合を確認する従業員。製法は昭和30年代からほとんど変わっていない=高岡市横田町2丁目の山元醸造
ソース造りの苦労を語る要藤さん=高岡市波岡

 コロッケにかける調味料と言えば、まずはソースである。揚げたての風味を引き立てる名脇役とでも言えようか。文字通りの二人三脚で「庶民の味」コロッケを味覚の面から支えてきた。
 ソースもコロッケと同様、西洋料理店とともに日本に入ってきた。初めのうちは輸入物のソースを使っていたが、一八八五(明治十八)年にヤマサ醤油(しょうゆ)(千葉県)が国産ソース製造の特許を取得し、徐々に国産ソースが造られるようになった。

●洋風化で登場
 高岡で自前のソースが登場したのは、コロッケやトンカツなどの揚げ物が家庭の食卓に並び始めた昭和三十年代のことである。全国メーカーと比べると、随分遅いデビューだったが、食の洋風化は確実に地方にも及んでおり、山元醸造(高岡市横田町二丁目)など数社がソース造りに乗り出した。
 「醤油、味噌だけではこれからの時代に乗り遅れる」。山元醸造では、七代目の故山本英夫さんの決断でソース製造を始めた。正確な時期は不明だが、昭和三十年代の前半とみられる。発売当初は量り売りを想定し、一升瓶ではなく、筒状の陶器に入れて取り扱っていたという。
 ソースの開発にあたったのは現在、同市波岡で酒販店を営む要藤求さん(70)だった。当時、大阪の醸造会社で働いていた要藤さんは、見よう見まねでソースの製造技術を身に付けていた。病気のため、たまたま高岡の実家に戻った際に七代目にスカウトされ、これがヤマゲンソース誕生の出発点となった。  「味は醤油に近かった。白いご飯にもかけていた」とは要藤さんの回想である。
 醤油に味が似ていたのは山元醸造だけではなかった。ソース造りの担い手は醤油の醸造業者が大半で、醤油製造の副業といった考えが強かったせいかもしれない。今より甘味料も少なく、消費者も醤油と同じような使い方をしたようだ。

●「ご飯に合う」
 それでも、食の洋風化に伴ってソースは着実に売り上げを伸ばした。「ご飯にもよく合うソース」が当時のヤマゲンソースのキャッチフレーズだったが、ここで言う「ご飯」は洋風化が進む一般家庭の食事も意味していた。むろん、洋風化の主役はコロッケだった。
 ソースは英国の食品会社が十九世紀の半ばに商品化した、比較的新しい調味料である。その元になったのは、この会社の創業者がインドで口にした日本の醤油だったという説がある。事実とすれば、国産のソースが醤油に似た味だったのもうなずける話だが、さて実際はどうだったのだろうか。

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