高岡コロッケ物語

高岡コロッケ物語(4)

第1部・浪漫あり
昭和の味(上) 空腹の時代、家庭の食卓へ

天狗乃肉林本店の旧店舗。店先に行列ができる人気だった=高岡市旅籠町
「子どものころの記憶を語る鷲北さん(左)=高岡市大手町

 戦後の食糧難は、高岡も例外ではなかった。戦災に遭った大都市ほどではなかったものの、子どもたちは皆、腹を空かせていた。高岡の精肉店でコロッケが店先に並ぶようになったのは、そんな空腹感が漂う戦後間もなくのことだった。
 東京など大都市では、戦前から精肉店でコロッケが売られていたようだ。東京での店頭販売を一九三二(昭和七)年ごろと記述している年表もある。それに比べると、高岡は十五年ほど遅かったことになるが、そこには単なる食卓の洋風化にとどまらず、戦後という時代のにおいがかぎ取れる。
 高岡の中心部には終戦時、神戸屋や西田本店、天狗乃肉林本店など六軒の精肉店があったと伝えられる。終戦翌年の一九四六(昭和二十一)年、先陣を切ってコロッケを売り出したのは神戸屋だった。

●一番のごちそう
 二代目店主の前田敬一さん(65)=高岡市片原町=は「当時はコロッケが一番のごちそうだった。栄養価も高く、多少の豊かさも感じさせてくれたのだろう」と語る。子ども時代、ジャガイモのタネ作りを手伝い、忙しい思いをしたことを今も覚えている。
 精肉店にとってコロッケは、肉を補う新しい商品という意味合いがあった。戦中から戦後にかけての食糧難の時代、肉も流通量が減少し、精肉店では十分な肉を仕入れることができなかった。
 これに対し、コロッケの材料であるジャガイモは比較的、手に入りやすく、肉は豚のひき肉が少しあれば事足りた。揚げ油も肉のラードで間に合わせることができた。
 ダイエットへの関心が高い現在と違って、栄養失調を心配しなければならなかった当時、カロリー満点のコロッケは飛ぶように売れたという。  父が天狗乃肉林本店に勤めていた同大手町店主の鷲北隆一さん(63)=高岡市大手町=は「どこの店もコロッケを買いに来る人たちで行列ができるほどだった。米に代わる主食の意味合いもあったのだろう」と当時を振り返る。

●庶民の味に
 戦後間もなくの一九五〇(昭和二十五)年当時、たばこのピース一箱(十本入り)が五十円だった。天狗乃肉林本店のコロッケは一個七円だったというから、たばこと比較した限りでは今よりかなり安かった。このあたりも庶民の味となった理由の一つと言えようか。
 今日、コンビニエンスストアには決まって、レジ横の保温ケースにコロッケが置いてある。揚げたてとはいかないが、定番商品の一つだ。このスタイルも元をたどれば、精肉店が始めた店頭販売に行き着くのかもしれない。

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