高岡コロッケ物語

高岡コロッケ物語(3)

第1部・浪漫あり
事始め(下) 昭和の初め、おやつの記憶

大正時代の木舟町から小馬出町にかけての山町筋(2本の線は原版のきず)
「自由軒」があった場所(左の角)には今、薬局が開業している=高岡市小馬出町

 明治期以降、山町筋は問屋街として繁栄した。ここに店を構えることが、高岡商人の大いなる目標だったといわれる。小馬出町も繊維問屋が軒を連ね、商都高岡を代表するあこがれのまちだった。

●「小さく俵の形」
 その小馬出町の通りから横道を五十メートルほど入ったところにあったのが「高岡マーケット」である。すぐ近くに住む表具屋の四代目、東保秀三さん(82)は、その一角でコロッケが売られていたことをはっきり覚えている。昭和の初めごろのことだった。
 「今のようにぺったんこのコロッケではなく、もっと小さくて俵のような形だった」。東保さんが回想する当時のコロッケの形状は、西洋料理店のコロッケに近い。もっぱら子どもたちが、揚げたてをおやつとして買い求めていたという。
 この高岡マーケットを開設したのは、満州(現在の中国東北部)帰りの老人だった。東保さんが聞いたところでは、満州で洋酒販売を手掛け、ビールに金粉を入れて売り出したところ、これが大当たり。しかし、妻が亡くなり、一財産を担いで高岡に戻ってきたらしい。
 マーケットは料理屋の跡地に開設され、通りに面して洋酒販売店が建っていた。中庭にはミニゴルフ場やバレーボールのコートのようなものがあり、子どもたちの遊び場になっていた。
 コロッケが売られていた店は、ほかの二、三の店とともに敷地の奧の方にあったが、それが何の店だったか東保さんは覚えていない。子ども心にもコロッケの印象が強かったのだろう。
 大正期から昭和初期にかけて小馬出町の一角には「自由軒」という名のカフェもあった。今も同町に住む会社経営、谷道巖さん(83)は「自由軒の二男が同級生だったので、店が開く前に中で遊び回った覚えがある」と振り返る。
 カフェは洋酒やビールを出す飲食店で、西洋料理が主なメニューだった。当然、コロッケもあったはずだ。谷道さんの記憶では「モンパリ」「ゼネバー」といった名前のカフェも中心街で営業しており、このころには都市化の波が高岡にも確実に届いていたことをうかがわせる。

●大正に歌ヒット
 一九一七(大正六)年、「コロッケの歌」が流行した。「今日もコロッケ/明日もコロッケ」の歌詞は大都市の新婚サラリーマンのぼやきだが、一方では家庭でコロッケを食べる「先進性」の発露でもあった。
 高岡マーケットのコロッケは子どもたちのおやつであり、母親たちが買い求める総菜ではなかったようだ。高岡の一般の家庭で食卓にコロッケが並ぶようになるのは、もう少し先のことである。

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