高岡コロッケ物語

高岡コロッケ物語(2)

第1部・浪漫あり
事始め(中) 「ハイカラ」な商都の味

「宝亭」があった高岡市片原横町の現在の街並み
片原町交差点の一角にあった当時の市役所庁舎

 高岡市御馬出町のパン屋「風玉堂」の二階に初の西洋料理店が開業した一世紀前の高岡は、どんなまちだったのか。高岡コロッケ誕生の時代背景を見ておこう。

●経済の中枢託され
 一八八九(明治二十二)年、全国に市制・町村制が施行され、北陸では三県の県庁所在地と高岡が市となった。当時の高岡の人口は約二万九千。同時に市制が施行された全国三十一市の中では盛岡、秋田などとほぼ同じで、佐賀、高知より多かった。
 人口が多かっただけではない。富山県はこれに先立つ一八八三(明治十六)年に石川県から分離独立したが、このとき、富山に県庁を置く代わりに、高岡には米商会所(米穀取引所)が設置された。経済の中枢は高岡商人の手中に託されたのである。
 高岡初の西洋料理店が他の場所ではなく、御馬出町に開業したのは、そんな高岡の歴史を振り返れば当然のことのようにも思える。旧藩時代に本陣が置かれた御馬出町は「六角堂」の愛称で親しまれた高岡米商会所が威容を誇り、米穀商が軒を連ねていた。税務署、郵便局、銀行など金融関連の機関も多かった。
 元高岡市立博物館長の神保成伍さん(69)は「パン屋も西洋料理店も、当時は流行の最先端。それが経済の中心地に開業したというのはよく理解できる」と解説する。高岡初の西洋料理店を出した梶川亮太郎がその後、移転開業した「宝亭」も、まちの真ん中にあった。
 宝亭があったのは、高岡御車山(みくるまやま)祭の勢揃(せいぞろ)い式で七基の山車(やま)が集まる片原町交差点から西へ約百メートルの国道156号沿い。一九一三(大正二)年には交差点の一角、現在の北陸銀行高岡支店の敷地に市役所が新築され、界隈(かいわい)は一九〇〇年(明治三十三)年の大火を境に、次第に商店街としてにぎわうようになっていた。

●「時代遅れの仏都」
 繁華街の西洋料理店に出掛け、ナイフとフォークを使って食べるコロッケは、まだまだ「ハイカラ」な西洋料理だった。
 それでも、高岡とコロッケの出合いは決して早くはなかったようだ。金沢や市制施行の時点ではほぼ同じ人口規模だった盛岡では、一八八一(明治十四)年に既に西洋料理店が開業している。
 梶川が西洋料理店の開業を決意するきっかけになった新聞記事には、こう書かれていたという。「高岡は新鋭の気風を嫌う時代遅れの仏都で、西洋料理店はただの一軒もない」。「仏都」とは真宗の盛んな土地柄というほどの意味だろう。
 コロッケ誕生の一事にも、まちの個性が反映されていたと言うべきか。

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